1 イカロスのネックレス

 ベッドから起きあがる私。白いレースのカーテンが揺れる。窓からは穏やかな風。純白の世界に包まれた室内。天井も、壁も、シーツも、何もかも白い世界に溶け込んでしまっている。お互いが反射し合い、まるで自分が宙に浮いているような錯覚。失ってしまいそうな平衡感覚。私は子猫のように眩しさに目を細める。
 窓から聞こえる音。これが私の目覚めた原因。渋滞気味の車、ノロノロと動くバス、すれ違う人達、連なる店とビルディング。そして散乱したゴミと、それに群がるカラス。機械的な日常が今日も繰り返されている。何の疑問も抱かずに、そして少しの狂いもなく今日をこなす人達。
 それに引き替え、ここはどうだろう?真っ白で、限りなく無に近い世界。優しい風が頬を撫でるだけ。まるで時間が静止しているよう。白い世界を漂う私。漂いながら下界を見下ろしている。そこには、いつもと何も変わらない退屈な風景。
 窓とは反対の方向へ目を向ける。白いプラスチックのトレイに朝食が用意されている。二つにカットされたトースト。その隣には色鮮やかなサラダ。カップに注がれたスープからは白い湯気が上っている。コンソメの香り。でもあまり食欲がない。それはきっとこのメニューのせい。
 そして手元に置いてあった縫いぐるみに目を落とす。ボロボロの小さなテディーベア。腕や首の部分には、決して上手くはない修繕の後。体を大の字に広げて眠っている。ううん、目を開けてるから起きているはず。私は確認するために縫いぐるみを抱いてみる。微かに鼓動を感じる。そう、私の胸に……。

 ノックの音とともに、白衣を着た女の人が入ってくる。私のベッドの縁に座り、微笑みながら私を見つめる。でも私には微笑み返す理由が見つからない。確かに顔見知りではあるけれど、それだけの理由で顔は綻ばない。
 先生は無表情の私を気にすることもなく、笑みを保ったまま私に体温計を差し出す。そして私の父の話を始める。
 先生の口から父の話題はよく出るけれど、その度に気分が悪くなる。胸の中心が、更に中心へと収縮して行くような……後頭部の髪の毛を後ろへ引っ張られているような……そんな気分。記憶の底から湧き出る黒い嫌悪感。それがオレンジ色に発光して、私の中を支配する。
 ふと先生の胸元へ目が行く。珍しいネックレス。大きさは三センチくらい。ディープブルーの石に、男の人の顔が掘られている。そして顔の両側に誇示された大きな翼。それらにゴールドの塗料が流し込まれている。
 私は父の話題を中断させるために、その奇妙なネックレスについて質問してみる。
「イカロス」と先生が一言呟いた。
 ラビリンスに閉じ込められたダイダロスとイカロス。脱出を試みるために、鳥の羽を蝋で固めて翼を作り、そして空へ飛び立った。しかし太陽に近づき過ぎ、太陽の神であるヘリオスを怒らせたイカロスは、翼を溶かされ大海原へと落ちて行った。
 先生が何かを喋るたびに、その石は微妙に角度を変え、室内の光にキラキラと輝く。
 いつしか話題は父の話に戻っていたけれど、その石を見つめていることで、不思議と私の気分は紛れた。
 やがて先生は私との距離を更に詰めた。そして私の頬に触れる。ひんやりとした手。私を海底から海面へ引き上げるような手。親指が涙を拭うように目の下をなぞる。
 私は泣いていたの?
(2/15)
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