II

 カーテンから差し込むボンヤリとした日差しで目が覚めた。光線に照らされた極微量の埃は、炭酸飲料水の水泡のように蠢き光の外へと逃げて行った。
 この十年もの間、何度あの少女の夢を見ただろうか?僕は差し込む日差しが織り成す光の演芸を惜しみつつ、深紅のカーテンを開けた。そこには当たり前のように夢に見た風景と同一のそれが見えた。広がる草原、小高い丘、そしてそこにそびえ立つ巨大なクスノキ。何一つ変わらないいつもの風景。
 クスノキの樹高は二五メートル、幹周は二十メートルあり、その樹冠は辺り一帯を覆い隠してしまうほどの壮観だった。地表に露出した根幹は地中深く根をおろし、大地の養分を数百年に渡り吸収し続けているのだろう。
 そして丘の周囲には広大な草原が拡がっており、そんな海原の直中に僕の住んでいる小屋は佇んでいた。小屋の前を横切り丘の向こう側まで続いている未舗装の小道は、まるで引き潮の際に現れる海底のようだった。となると僕の小屋はさしづめ、今にも沈没してしまいそうな頼りない小舟と言ったところだろう。
 草原は、季節によって表情を目まぐるしく変容させる。風を全身で感じ取り一斉に体現するその様は、正に荒れ狂う大海原に放り出された錯覚を覚えるが、雨の日には新緑の葉から滴る雫を大地へ還元する優しき使者となる。そして草原は季節と共に枯れ色へと変化し、再び青葉となり復活を遂げる。
 しかしそんな厳然且つ優美な光景も、あの巨樹の前では色褪せてしまう。いや、すべては丘の上への演出に過ぎないのかもしれない。
 小島の様な丘の上にそびえ立つクスノキは、僕の十年来の生体活動に密接していた。睡眠から覚醒し深紅のカーテンを開けた瞬間から、夕暮れてランプに火を灯すまで、そして再び眠りに落ちるまで、僕は可能な限りあの樹形を観望することにしている。風に揺らぐ葉、その葉を支える枝の軋み、樹冠の中で守護されている無数の生物たち、根から養分を吸い上げ体内を流動する音すら聞き逃すまいとする自分がいる。何故ならそれが僕の責務に思えてならないからだ。誰に命じられたわけでもないその責任と義務は、もちろんいつでも破棄することができる。しかし僕には、おいそれとそれを破り捨てることができない理由があった。
 僕はクスノキの根幹へ目を落とした。丘を丸ごと鷲掴みにしたようなその根は、いつも僕に畏怖の念を再認させてくれる。そして夜陰に浮き出る巨大な樹冠は、さながら悪魔が己を誇示するかの如く翼を開いているようだ。そして眠りに落ちる寸前の僕に覆い被さり、跡形もなく消し去ってしまうのだ。後に残る物と言えばほんの僅かな公徳心ぐらいだろう。もっともその唯一の僕の残骸ですら、あの丸太のような根本からいとも簡単に吸い取られてしまいそうだ。
 僕は眠い目を擦りながらキッチンへ行き、愛飲のゴルトベルクの紅茶を入れた。缶の中には極少量の葉が残っているだけで、どうやらストックももう無いようだ。僕は仕方なく、フィルターに残ったままの古い葉の上に缶を開けた。注がれた熱湯は一端古い葉の表層で滞り、固まりつつあるそれをゆっくりと熔解し、そして褐色の液体となりカップへ落ちて行った。
 紅茶を入れ終えた僕は窓際の椅子へ腰を掛け、火傷を負わないように注意深く一口すすり目の前の木製の丸テーブルへカップを置いた。
 ここからは死角になっているが、あのクスノキの裏手には直径四十センチほどの洞穴がある。根幹の周辺には何百年もの歳月を経て形成された窪みのようなものが幾つか存在するが、その洞穴は地中深くまで侵食していた。陽の強い白昼ですら底部までは視認できず、黒々と口を開けたその様は異形としか言いようがなかった。
 しかしそんな洞穴も、十年前に起こった幼女の転落事故を機に、現在は茨により封印されていた。
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