4 セラピー

 ふと机から顔を上げると、授業が始まっていた。数学の授業。黒板に書き連ねられた意味不明の数字や記号。あの記号は何だったかしら?そう、コサイン。あの数式は……ド・モアブルの定理。
 複素数、複素平面、一次関数……教師の口からは難解な言葉が飛び出し続ける。
 ローズピンクやソフトイエローのチョーク。消しては書き込まれる数式。
 スカイブルーやライトグリーンのチョーク。それを必死にノートに書き写す生徒達。
 シャープペンシルとチョークの滑る音が、私を眠りの国の入口へ立たせる。
 等角写像、初等関数……
 振り向いた教師の顔には見覚えがあった。肩にかかった髪、人の心の深い部分まで見透かしたような瞳、難解な言葉にはそぐわない赤い唇、そしてディープブルーのネックレス。
 コーシーの積分定理、テイラー展開……
 そのネックレスと教師の顔を交互に見比べる。やがてそれぞれの残像が重なり合う。それは壊れた映写機のような頼りなさ。青ざめた教師の顔が歪む。そして視界が霞む。私はまた眠りの国へと吸い込まれて行く。

 人形に徹しきれなかった私。頬を伝う涙。きっと私の瓶に溜めていた涙が、溢れてしまったのだろう。そう、それは背徳の排水。きっと濁った色をしているに違いない。
 背理と言う名の部屋。父のグローブのように大きな手が私の髪を梳く。混沌とした時間。不規則な秒針の音。万物の根元としての無。
 オレンジ色の空は、いつしか冷たい夜の色へと変わっている。窓から差し込む月明かり。こんな私達にも、月は平等に光をそそいでくれる。
 スーツの皺を正す父。そして私に背を向けてゆっくりと去って行く。規則正しい歩調。革靴の乾いた足音が響く。そして静かに扉が閉まる。その数秒後、カチャリと鍵のかかる音。
 扉に走る私。扉を開けようとする私。でも扉は開かない。いくら叫んでも父には声が届かない。いくらドアを叩いてみても誰にもその音は届かない。
 私は机へ戻り、冷めた食事を摂る。トーストとサラダ、そしてコンソメスープ。
(5/15)
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