3 風化した天使の彫像

 カーディガンを羽織り廊下へ出る私。白い風景は、そのままリノリウムの床に逆さまの世界として映し出されている。まるで朝靄に包まれた湖面。少しでも身動きをしようものなら、たちまち水中に引きずり込まれてしまいそう。
 意を決して恐る恐る歩き出す私。そんなおぼつかない私をよそに、行き交う人達は上手に湖面を渡っていく。私に手を差し伸べるどころか、一瞥をくれる人すらいない。
 窓から見える灰色の空。その空に侵食された雲。自らの形状を変化させ、ゆっくりと動いている。そんな空を見ていると、私の周りだけが酷く早回しな印象を受ける。
 一階へ続く階段に到達した頃、前方にいる一人の少年が目に入った。その少年もまた、私と似たような歩き方。両手でバランスをとりながら、一歩一歩ゆっくりと歩いている。
 その不器用な歩き方に、偏愛な笑みがこぼれる。そう、私も同じ。私もかろうじてここまで辿り着いたから。だから気をつけて。湖に沈んでしまわないように。逆さまの世界に引き込まれないように。
 少年とすれ違う時に、何気なく床に目を落として私は驚く。逆さまの世界に映る少年。その少年の背中には白く大きな翼。それは天使のように清らかで美しい翼。
 とっさに顔を上げ、少年の顔を見る私。優しい笑みを浮かべて私を見つめる少年。

 周囲を病棟に囲まれた、十メートル四方の中庭。日差しはその中庭の半分を照らし、無数の窓には灰色の空が映り込んでいる。小さな世界。そう、箱庭の中に迷い込んでしまった感覚。辺りを見回すまでもなく、ここには誰もいない。誰もいない箱庭。
 ゴシック調のベンチに座る私。鉄のベンチからは、秋の冷たさが伝わってくる。だからその冷たさを紛らわすために、中央の噴水を眺める。手入れの滞った枯葉まみれの噴水。もちろん水は出ていない。
 その噴水の真ん中に設置された彫像。片方の翼が折れ、土色に風化した天使。両手に瓶を抱え、水遊びでもしているような格好。でもその表情からは何も読み取れない。楽しげでも、悲しげでもない。それは翼が折れてしまったせい?
 彫像が、ゆっくりと病棟の影に覆われていく。影の面積が増えるにつれ風化が目立ち、どことなく不気味な印象を受ける。
 そして私の座っているベンチが影に包まれた頃、私は初めて来たこの中庭に、大した感動も覚えず病室へ引き返した。
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