IV

 頬に当たる霧雨が心地良かった。その細く小さな雨粒はユラユラと空中を漂い、僕が息を吹きかけると簡単に空へ舞い戻って行った。その雨粒の行く末を最後まで見届けようとしたが、辺りは水中のように霞んでいるため途中で見失ってしまった。
 そんな風も音もない世界に僕と彼女は佇んでいた。二人とも髪や服が体に張り付くほど雨に濡れ、彼女の両結びの髪先からはポタポタと雫が垂れていた。
 突然彼女が身を翻して駆け出した。屈託のない笑顔の上を、次々と雫が遠心力により流れ落ちた。
 僕は慌てて彼女を追った。彼女が遠ざかると、今まで心地良く感じていたこの場所が、急に物寂しさで一杯になったからだ。
 しかし彼女は鈴の音のように笑いながら器用に僕の手を逃れた。時折僕を振り返る彼女の大きな瞳の中には、きっと情けない顔をした僕が映し出されていたに違いない。
 丘の頂上付近でようやく彼女を捕まえた頃には、僕たちはゼンマイが切れかかったオモチャのように疲れ果てていた。二人とも喉がカラカラになり、空を仰ぎより多くの雨粒を口の中に取り込もうとした。

 乗り捨てられた自転車を発見したのは僕だった。車体の大部分を野草に取られ無様な格好で横たわるそれは、まるでリリパット人にがんじがらめにされたガリバーのようだった。
 僕は彼女を荷台に乗せ、覚え立ての運転を得意げに披露した。走り疲れていた彼女は僕の背後で大人しくしていたが、僕は彼女が怖がっているものと勘違いをし、悪戯にスピードを上げた。
 しかしぎこちない運転に天候状態も相まって、僕たちを乗せた自転車は意図せぬ方向へ走り出した。
 車輪は、ブレーキによる摩擦を物ともせず急激に加速を始めた。彼女のしがみつく両手が僕の貧弱な腹部に食い込んだが、痛みを感じている余裕はなかった。制御の効かなくなったハンドルを渾身の力で握り、目まぐるしく通り過ぎて行く風景に焦点を合わせることだけが僕の精一杯だった。
 すると突然前輪が何か硬い物に弾かれ、僕たちは宙に投げ出された。一瞬、視界の片隅に彼女の華奢な脚が見えたが、その直後新緑の地面を自転車と共に転がり落ちていった。

 どのくらいの時間が経過したのだろうか?気を失っていた僕たちは、ほぼ同時に意識を取り戻した。恐る恐る体を起こし怪我をしていないか調べたが、どうやら野草がクッションとなり二人ともかすり傷程度で済んだようだ。自転車は数メートル先に横転しており、タイヤの空回りする音だけが辺りに響いていた。
 ふと彼女と視線が合った。草や泥まみれになったお互いの有様が滑稽で、それまで深刻な表情をしていた僕たちは同時に笑い出した。
 雨粒が心地良かった。
(4/9)
<<back  <<home>>  next>>