III

 遠慮気味にドアが開き、郵便配達員の顔が覗いた。
「いらっしゃったのですか。ノックをしたのですが、お出にならないものでお留守かと……」
 郵便配達員はいつものようにくたびれた紺色の制服をなおざりに着込み、獲物を呑み込み膨張した蛇の腹のような鞄を肩から斜めにかけていた。この男のノックの音は、息絶える直前の鈴虫の音のように遠慮気味であり、いつも聞き逃してしまう。
「今日も郵便物はありませんよ」
 彼はそう言うと鞄を入口付近におろし、いつものように部屋の中へ入ってきた。
「すいません、生憎ゴルトベルクを切らしてまして……」
 彼を向かいの席へ招き僕は言った。
「いえ、構いませんよ。今日は直ぐに失礼しなければならないので……」
「それはまたどうして?いつもならゆっくりしていって下さるではありませんか」
 何となく予測はついたが、僕は敢えて問いかけてみた。すると、彼の表情が微妙に変化した。
「そろそろ忌日が近づいていますからね。今年は私が責任者なので、色々と準備があり奔走させられているのです」
 彼は重い口調で言い終えると、窓の外へと視線を移した。つまり、あの丘の上のクスノキを見ているのだ。
 忌日というのは、十年前の転落事故が勃発した日付である。その年から毎年洞穴の前に薔薇の木を一本ずつ植えるのがこの町の習慣になっているのだが、今年は彼がその追善の責任者なのだ。
「もうそんな時期ですか……。早いものですね」
 僕は正直な心境を漏らし、冷めつつあるゴルトベルクを一口飲んだ。喉が乾いていたので続けざまに口にしたかったのだが、目の前の郵便配達員に気兼ねをし自制することにした。
「私に言わせてもらえば、あの日から時間が止まってしまったように思えてなりません。あの丘も、あのクスノキも、町の風景も何一つ変わりませんし、私たちはただひたすら薔薇を植え続けているような……そんな気がしてなりません……」
 郵便配達員はそう言うとゆっくりとした動作で席を立ち、入口に置いてあった鞄を肩にかけた。
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