II

 壊れかけたボイラーの音が聞こえた。
 屋上に出た私は、瞬間的にこのビルのボイラー室らしき場所を探した。しかし、その音が遠方から聞こえてきているという事実に気付き、照れ隠し的な意味合いを込めてそのまま辺りを見回す振りをした。私以外に誰もいないこの場所で、私は一人芝居でもしているような気分になりおかしくなった。
 どうせ芝居ならば、BGMも欲しいものだ。私はボイラーの音に規則性を探し始めた。三拍子だろうか?それとも四拍子だろうか?シュトックハウゼンの『ドクターK六重奏』という曲を思い出した。確信的認識はやがて不安に晒され、幾重にも重なった不協和音となる。そして巨大な固まりへと変貌し、ビルの頂点へ鎮座するのだ。
 地上からビルを見上げた時は高さこそあれさほど大きくは感じなかったが、屋上へ出てみると自分が子猫になってしまったのではないかと錯覚するくらい広壮な印象を受けた。その印象は、遮蔽物がまったく存在していない事実に起因しているのだろう。
 点在する変色した空き缶や紙切れ。私を遠巻きに包囲している錆びた鉄柵。その鉄柵の向こうには、このビルと似たような生死不明のビルが見える。右を見ても、左を見ても、前も、後ろも同じ光景。それらが、私の平衡感覚を阻害する。
 上を見上げると、のし掛かるような曇り空が私を威圧した。もしも雨が降り出したら、ここはプールになるのではないだろうか?こんな広いプールを独占できるのならば、歴史の塗り替えは延期しても構わない。しかし平衡感覚の欠如が著しい私が、遊泳中に迷子になってしまうという危険性も十分考えられる。私は一瞬、この巨大な水の世界に閉じ込められた状況を想像した。水の中からあの空を見上げると、やはり綿菓子のように見えるのだろうか?
 突然一陣の風が吹いた。私は情景を振り払いつつ若干前屈みになり、両手で髪と制服のスカートを押さえ、その悪戯好きな風をかわした。風は私を翻弄し損ねた腹いせに、空き缶や新聞紙を蹴散らし去って行った。
「何をしているの?」
 私が髪や制服についた砂埃を祓っていると、どこからか声がした。透き通るような細い声だったがどこか芯の強さが感じられ、一瞬母親に悪戯を窘められた時の事を思い出した。
「今あなたが取っている行動は、これからあなたが行おうとしている行動と矛盾するのではないかしら?」
 辺りを見回してみると、向かいのビルの屋上に私と同じ制服を着た少女が立っていた。髪は肩にかかる寸前で綺麗に切り揃えられており、栗色のそれは曇り空の下では妙に鮮やかに見えた。
 まさかこんな場所に、私以外の誰かがいるとは思わなかった。しかも同じ学校の生徒が。彼女も歴史の塗り替えに訪れたのだろうか?しばらく動揺を隠せずに少女を凝視していたが、少女は微動だにしなかった。
「今あなたが取っている行動は、これからあなたが行おうとしている行動と矛盾するのではないかしら?」
 少女は、先程と何ら変わりのない口調で繰り返した。私は可能な限り間近で少女を確認するために、鉄柵まで近づく事にした。どの道歴史を塗り替えるためには、あの鉄柵を乗り越えなければならないのだから。
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